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日本ハム・栗山英樹監督(56)が27日、前日のドラフト会議で1位指名し7球団競合の末に交渉権を獲得した早実・清宮幸太郎内野手(18)の指名あいさつのため、東京・国分寺市の同校を訪れた。相思相愛の両者は約40分の会談の中で入団意思を確認。栗山監督は清宮の印象を熱く語りながら、育成の責任と覚悟にも言及した。高校通算111本塁打のスラッガーは、果たしてどこでデビューとなるのか。球団内では来季開幕戦でのスタメン構想が、早くも動きだしている。
予定の30分を超える約40分の指名あいさつ。入団意思を確認するには十分であったことは、何より栗山監督の表情が雄弁に語っていた。
「本当に(笑顔を見せて)こんな感じです。天真らんまんで野球を愛して一生懸命やっている。野球に対する魂みたいなものが見えるし、みんなに愛されている理由が分かった。ファイターズを愛してくれているのがよかった。自分が思っていることを言葉にできるのは素晴らしいことだと思った」
こう清宮との40分を語った指揮官は、さらに人を引きつけるその魅力を「ベーブ・ルースってこんな感じだったのかな」と表現し、清宮の方から球団が2023年オープンを目指している新球場計画、さらに20年東京五輪の話を切り出してきたことを明かした。
新球場に関して「我々の夢だから説明した」という栗山監督は、1000日後に迫った東京五輪についても「こっちの責任として(侍ジャパンの)真ん中(4番)で打てるんだという道筋がオレの中ではある。そこまでは何とかもっていきたい」と強い覚悟で“侍4番1000日計画”を口にした。
来春キャンプの一軍帯同については「気が早いね。その前にウチに来てもらわないといけない」と現実に戻っていたが、よほどのケガでもない限り清宮のキャンプ一軍スタート、開幕一軍起用の方針は間違いない。
実際、12年オフの大谷獲得時にGMを務めていた山田正雄スカウト顧問(73)は「あくまで個人的な見解」としながら「清宮は最初から一軍で使って育てるべき選手」であることを強調した。
同顧問は現チームの4番・中田を例に挙げ「中田の場合は(打ちにいく時に)左ヒジが上がってしまうフォーム上の明らかな欠点があって、それを矯正するためにも二軍でスタートさせる必要があった。ただ、その心配がない清宮の場合は、一日でも早くプロの球に慣れさせて課題を見つけるためにも最初から一軍で使った方がいい」と断言した。
その上で「もちろん、同じ左打者で(1年目から)逆方向に強い打球が打てて、苦手なコースもなかった大谷のレベルにはないかもしれない。それでも高校通算111本を記録した打撃センスは非凡だし、状況打開能力は高いと思う。当然、現場は勝利優先だけれども、打てなくても1年目は我慢して使うことも必要。大谷が(1年目の)開幕戦から(8番・右翼で)スタメン出場したように清宮も下位の7、8番でいけると思う」と3・30開幕戦(対オリックス)での「7番スタメン構想」に言及した。
20年の東京五輪開幕までおよそ2年9か月。その期間内で清宮を侍ジャパンの4番に押し上げる日本ハムの育成1000日計画はすでにスタートしている。
〈大物高卒選手の一軍デビュー戦〉
【巨人・王貞治】
入団1年目の1959年4月11日、国鉄との開幕戦に「7番・一塁」で先発出場。金田の前に2三振1四球。
【日本ハム・大谷翔平】
入団1年目の2013年3月29日、西武との開幕戦に「8番・右翼」で先発出場。2安打1打点を記録した。
【日本ハム・中田翔】
入団2年目の2009年5月23日、ヤクルト戦に「7番・DH」で初出場。初安打をマークした。
【DeNA・筒香嘉智】
入団1年目の2010年10月5日、巨人戦に「5番・一塁」でスタメン出場。3打数無安打だった。
【ヤクルト・山田哲人】
入団1年目の2011年11月3日、中日とのクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第2戦に「1番・遊撃」で初出場。レギュラーシーズンの初出場は2年目の2012年4月5日、阪神戦の8回に代打で出場。榎田から左前に初安打を記録した。
【巨人・松井秀喜】
入団1年目の1993年5月1日、ヤクルト戦に「7番・左翼」でデビュー。翌日に高津からプロ1号本塁打を放った。
【西武・清原和博】
入団1年目の1986年4月5日、開幕2試合目の南海戦で、6回から途中出場し、藤本からプロ1号本塁打。
【中日・立浪和義】
入団1年目の1988年4月8日、大洋との開幕戦に「2番・遊撃」として先発出場。第3打席で二塁打を放った。
【阪神・新庄剛志】
入団2年目の1991年9月10日、巨人戦の9回に代打で初出場。香田から初安打初打点となる中前打を放った。
【オリックス・イチロー】
入団1年目の1992年7月11日、ダイエー戦の2回から左翼手として途中出場。
【ダイエー・城島健司】