ソフトボール日本代表の投打の軸、上野由岐子と山田恵里が歩んだ13年(BBM Sports)

出典元:BBM Sports

「13年の月日が経っているので、あのときのピッチングはもうできない。今できる自分のピッチングをしっかりやっていきたい」

 所属チーム・ビックカメラ高崎の本拠地・群馬県高崎市からオンラインで行われたソフトボール日本代表候補選手会見で、「北京五輪のときと比べて心境の変化はあるか?」と問われ、上野由岐子はこう答えた。

 日本中が熱狂した2008年8月21日。あの歓喜の瞬間から、もう13年が経とうとしている。

 日本代表選手の主戦場となる日本リーグは、北京五輪直後こそ、金メダリストを一目見ようと多くの観客が詰めかけたが、その盛り上がりの熱が冷めるとともに客足は遠のいていった。ともに戦った北京五輪代表メンバーは、一人また一人と現役に区切りをつけていく。

 12年のロンドン五輪に続き、16年のリオデジャネイロ五輪でも競技復帰はかなわず――。目標を見失った上野は使命感から現役を続けながらも、心からソフトボールを楽しめずにいた。

 当時を振り返った小誌インタビューで上野はこんな言葉を残している。「北京オリンピック以降は、燃え尽き症候群のような状態になっていました。自分が頑張らなければならないことは分かっているのに、正直、何度も気持ちが折れそうになりました」

 そんなときに支えてくれたのがいつも近くにいたチームメイトであり、当時チームの監督を務めていた宇津木麗華ヘッドコーチだった。上野の気持ちを無理やり奮い立たせるわけではなく、ただただそっと寄り添ってくれた。

 16年8月3日に東京五輪での競技復帰が決定すると、同年11月には宇津木氏がヘッドコーチに就任。強化指定選手に選ばれ日本代表の強化合宿に参加する中で、自身3度目の五輪がいよいよ現実味を帯びてきた。そうして上野は再び五輪に挑戦する覚悟を決めた。自分のためというよりも、自分を必要としてくれる日本代表、日本ソフトボール界のため。そして宇津木ヘッドコーチへの恩返しのためにという思いが強かった。

 そして、もう一人覚悟を決めた選手がいる。卓越した打撃センスを武器にアテネ、五輪と2度の五輪で日本のメダル獲得に貢献した山田恵里(デンソー)だ。北京五輪の決勝では、それまで日本打線が打ちあぐんでいたキャット・オスターマンから値千金の本塁打を放っている。

 上野の1学年下、3月8日に37歳を迎えたばかりの山田もまた、北京五輪後は人知れず苦悩の日々を送ってきた。東京五輪の追加種目として実施が決まった直後の小誌インタビューでは、「北京五輪が終わって目標がなくなり、抜け殻状態になっていた時期がありました。それは北京五輪で最大の目標を達成してしまったということと、次がないという理由からでした」と当時のつらい心情を吐露している。

 しかし、上野同様自分を支えてくれた周りの存在に助けられたという。”引退”という選択肢が頭をよぎったこともあったが、「自分一人でここまでこられたとは思っていませんし、周りの人の支えを感じたり、チームメイトが頑張っている姿を見たことで、自分の感情だけで動いてはいけない」と思いとどまった。所属チームや全日本のメンバー、日本リーグの仲間、たくさんの人がソフトボールに打ち込む姿を見たことで、再び頑張ろうと思えたのだという。そして東京五輪代表候補選手に選出された今、「今回のオリンピックでは恩返しの思いを伝えたい」と話す。

 以前、小誌で上野と山田の対談を行ったことがある。所属チームが違ううえに、投手と野手でポジションも違う二人。それまであまり深い話をする機会がなかったというが、会話の端々からはお互いへの尊敬の念が感じられた。100年に一人の逸材と言われる上野、天才打者と評される山田。1歳違いの二人は同じ時代を生き、ソフトボール競技の普及・発展のために尽力してきた。

「ヤマがいたから」(上野)
「上野さんがいたから」(山田)

 多くは語り合わずとも、お互いの存在が支えとなり、頑張る活力となってきた。そして今、お互い3度目となる五輪の舞台に共に挑もうとしている。競技生活の集大成となるであろう大舞台で、二人がどんなパフォーマンスを見せてくれるのか、注目が集まる。

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