【二十歳のころ 中嶋悟氏(2)】ライバル減り鈴鹿サーキット独り占め(サンケイスポーツ)

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二十歳になった1973年。高度経済成長の折、いろいろなことが起きた。73年といえば第1次オイルショック。物価がグ~ン! とはね上がって。トイレットペーパーの買い占めとか、世間的には大変だったけど、兄貴のガソリンスタンドで働いていた僕には、それほど悪いことではなかったように思うよ。

 当時、品薄なのはトイレットペーパーだけでなく石油で作られるタイヤも同じ。金に糸目をつけない時代だった。ダンプカーを使っている会社の社長が「タイヤを何百本でも買えるだけ買ってこい!」ってね。仕入れれば、すぐに高値で売れた。実家の納屋に入るだけタイヤを詰め込んで。うちは農家なのに納屋はいつもゴム臭かった。生来の車好きで、稼いだらすべて車につぎ込んだ。

 お客さんの車がうちのガソリンスタンドの前に列をなして並んでいたのを覚えている。「1台10リットルでお願いします」っていう状態だった。内心、申し訳ないと思っていたよ。そんな時に僕は、自由にガソリンもタイヤも使えたんだから。

 レース仕様のファミリア・ロータリークーペで公道は走れないから、トラックで鈴鹿サーキットに運び、練習したんだけど、オイルショックで自動車メーカーは撤退ムード。メーカーに“就職”する格好でレーサーをしていた人たちはいなくなり、自動的にライバルが減っていった。鈴鹿でもコースを独り占め。オイルショック…僕にとってはよかったねぇ。

 そのうちに「小柄だけど、速い奴がいるぞ」と言われるようになった。フォーミュラカー(ファミリアのような乗用車ベースではなく、F1のようにタイヤがむき出しになったレーシングカー)に乗るチャンスが巡ってきた。22歳だった75年にフォーミュラカーの「FL500」でチャンピオンになった。

 ただ、金銭的には恵まれなかった。23歳ぐらいで碧南マツダ(愛知)に2000万円近い借金があった。部品代とか整備代とか。碧南マツダは田中梅夫社長の奥さんが経理担当で、冷たかったな。それをもともとレースをやっていた田中さんが「ある時払いの催促なしでいいだろ。俺も遊んでるから」って出世払いにしてくれて。本当にありがたかった。

 プロに転向したのは77年。“日本一速い男”といわれる星野一義さんがいた最強チーム、「ヒーローズレーシング」に加入した。FJ1300(のちのF3)に出て7戦全戦で予選、決勝とも1位。ただ、同時に出場していたF2000(当時の国内最高カテゴリー。現在のスーパーフォーミュラに相当)では6歳年上の星野さんがチャンピオンになって、僕は年間3位だった。

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