東日本大震災から10年…家族失った自衛官 ヒマワリが教えてくれた「生きる」ということ(スポニチアネックス)

出典元:スポニチアネックス

◇東日本大震災から10年 あの日あの時3.11(2)

 発生から10年を迎える東日本大震災の記憶と教訓は、どのように受け継がれているのか。本紙記者の被災地ルポ「あの日 あの時」。第2回は津波で一緒に暮らす家族4人全員を失った自衛官が大切にしている携帯電話の待ち受け画面とヒマワリです。

 1月に購入したスマートフォン。ガラケーから卒業したてで、まだ操作には慣れない。ただ、機種は変わっても待ち受け画面はずっと同じ。「おーい元気かあ?」と笑顔の顔文字が問いかけてくる。ひとり娘の大切な形見だ。「大きな病気もせずに今日も何とかやってるよ」。宮城県多賀城市の陸上自衛官、佐々木清和さん(54)はこの10年、画面に向かって変わらず語りかけてきた。

 自宅は宮城県名取市閖上(ゆりあげ)にあった。高さ約9メートルの巨大津波は、約5000人が住んでいた一帯を跡形もなく消し去った。そして、妻りつ子さん(当時42)、閖上中2年だった長女・和海さん(同14)、義父石垣利一さん(同76)、義母かつよさん(同68)の家族4人の命を奪っていった。

 あの日の朝、勤務先の船岡駐屯地(宮城県柴田町)に向かう前、りつ子さんと夫婦げんかをした。「なんでご飯が冷たいの?」。炊飯器の電源が切れていたのが原因だった。昼に、りつ子さんから電話があり「まだ怒ってるの?」「もう怒ってないよ」とやりとり。それが最後の会話になった。

 震災当時は約70人をまとめる車両整備の中隊長。人命救助に向かう自衛隊員の後方支援に追われた。合間にりつ子さんに2、3回電話をかけたが通じない。「どこかに逃げてるんじゃないか」。そう信じていた。

 家族と会えないまま発生から10日目を迎えた3月20日。遺体安置所を回っていた閖上中の教師から連絡を受けた。同中で亡くなった14人の1人が和海さんだった。翌21日に震災後初めて休暇を取って、安置所となったボウリング場へ向かった。「ボウリング場は音が響くから、遺族の泣き声が入り口まで聞こえてきた」。20レーンに300~500の棺が並んでいた。ひとり娘は冷たくなっていた。着ていた中学校のジャージーは破れ、油や海のにおいがした。「なんで逃げなかった」。思わず声が出た。次の日にりつ子さん、その後に義父母も見つかった。震災直後、自宅でりつ子さんと和海さんが落下した屋根瓦を片付ける姿を近隣住民が目撃していた。

 和海さんは真面目な性格で「ちょっと人見知りなところなんて俺に似てるかな」。今使っているスマホの待ち受け画面も和海さんの“作品”だ。震災発生2年前の夏、一家で秋田の実家へ帰った時のこと。佐々木さんの携帯電話を借りて「おーい元気かあ?」の文字に星とハートのマークをあしらっていた。

 りつ子さんは毎朝「夕食は何食べたい?」と聞いて送り出してくれた。日々の献立を考えるのがどれほど面倒なことか。失うまで気づかなかった。

 家族を一度に失い、現実を受け止めきれず酒浸りの日々。テレビを見ながら500ミリリットルのビール缶を次々に空けていく。体重は10キロ以上落ちた。

 悲しみを癒やしたのはヒマワリだった。震災翌年、阪神大震災に見舞われた神戸市の団体がヒマワリの種を配っていることを知った。「やることがないから植えてみっか」。譲り受けた10粒から3輪が咲いた。2年目は「はるかのひまわり」と呼ばれる種を閖上の自宅跡地に植え、50輪の花が開いた。15年夏、育てたヒマワリが自分の背丈を超え、初めて見上げた。「家族が見てくれているような気がした」。現在の部屋でもプランターに植えたヒマワリがヒョロヒョロと芽を伸ばし始めている。

 自宅跡地の近くにある資料館「閖上の記憶」で語り部を始めて6年がたつ。遺品のジャージーを見せ、「地震で津波がくる可能性があったら高台に逃げて。無駄になってもいい」などと災害の恐ろしさと教訓を伝えている。最近は語りに「コロナ禍で人間は我慢することを教わったと思う」という内容も加えた。

 「命とは、限られた時間を生きること」。ヒマワリが咲く時期は年に1回。「日本人男性の平均寿命が約80歳とすると、私は54歳なのであと26回しか花を見ることができない」と語る。10月には55歳となり自衛官として定年を迎える。再就職先は未定だが、どこかの学校で和海さんと同じ年頃の生徒を見守って働きたいという希望はある。「1人で生活はできるが、1人で生きていくことはできない。人間はそれぞれ役割があり、いるだけでも生きる意味がある」。自らの役割を全うするまで家族には待ってもらうつもりだ。(安田 健二)

 ▽震災とヒマワリ 阪神大震災由来の「はるかのひまわり」が復興のシンボルとして知られている。95年、神戸市の自宅が倒壊して亡くなった加藤はるかさん(当時11)の自宅跡に咲いたヒマワリにちなんで名付けられた。地元の人々が大切に育て、東日本大震災の被災地など国内外に種を届けている。

 ≪日航機事故の遺族と交流≫佐々木さんは1985年の日航ジャンボ機墜落事故の遺族とも文通などで交流を深めている。手紙を送る相手は、当時9歳の次男を失った美谷島邦子さん(74)。16年に閖上で行われた交流会で出会ったことがきっかけ。最近も「もうすぐ定年です。これから何をしようかな」と書いた手紙を送ると「そんな先のことは考えずにまずやれることをやりなさい」とアドバイスをくれたという。

 ≪竹内まりやから直筆手紙≫佐々木さんが語り部活動をする際「自分の気持ちと同じ」として竹内まりや(65)の「人生の扉」と「いのちの歌」を聴いてもらっている。「人生の扉」は2番で♪満開の桜や 色づく山の紅葉を この先いったい 何度見ることになるだろう――と歌う。2曲に関しては竹内側に手紙を送り、使用許可を得た。竹内からも直筆の手紙が届いたという。

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