【藤川球児物語(14)】戦力外ギリギリから岡田監督のリリーフ起用案(スポニチアネックス)

出典元:スポニチアネックス

03年、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた闘将・星野仙一は体調の不安を理由に、このシーズン限りで勇退した。後任は85年の日本一戦士でもある岡田彰布。日本シリーズ終了翌日に就任が発表された。

 ほどなくしてひとつの報告が岡田の元に届けられた。オフの戦力補強に関して、球団フロントとしての考えを伝えるものだった。重要資料に目を通す中に「藤川球児」の名前があった。

 関係者の話を総合すると、内容はこうだった。(1)来季戦力としては計算できない(2)ヤクルト、広島からトレードの打診がある―というものだった。球団としては移籍交渉を進めていきたいという方向性だった。

 ドラフト1位入団として球団は期待したが、03年までの5年間の成績は「48試合登板、2勝6敗」と物足りない数字なのは確かだった。火の玉と呼ばれるストレートを投げる前の時期。右肩、ヒジの調子にも波があり、前任の星野も「痛いの、かゆいの、がなければ、いい球は持ってるんだが」と口にしていた。首脳陣とすれば計算しにくい若手の位置づけだった。

 だが、岡田はこの報告を却下した。「藤川は使える。短いイニングなら通用する」。00年から3年間、2軍監督を務め、藤川の持ち味と弱点を見続けた上での判断を下した。

 立ち上がりは良くても、中盤に打ち込まれる―。野村克也や星野が嘆いた弱点を、岡田も認めていた。星野時代も「先発で調整させてくれ」という注文に、2軍監督として「それは無理だと思います」と意見を戦わせたこともあった。一方、いいときの球のキレには見るべきものがある。「リリーフとして短いイニングで使っていく」と岡田は球団にも伝えた。

 新監督の視線を感じて臨んだ04年キャンプ。だが、まだ試練は続いた。第1クールを終えた2月5日に右肩痛で沖縄から緊急帰阪。診断結果は「右肩腱板炎」。早すぎるリタイアだった。

 =敬称略=

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