元阪神のキーオ氏が死去 虎暗黒時代のエース、早すぎる…64歳(サンケイスポーツ)

阪神の元投手で、1987年に開幕投手を務めるなどNPBで通算45勝を挙げ、米大リーグでも通算58勝をマークしたマット・キーオ氏が死去したと2日(日本時間3日)、大リーグのアスレチックスが発表した。64歳。死亡日時や死因は不明。暗黒時代初期に3年連続2桁勝利を挙げるなど奮投。引退後は古巣のア軍でゼネラルマネジャー補佐を務めるなど、フロントとして活躍した。

 あのマット・キーオ氏が亡くなった。口ひげがトレードマークで、明るい人柄で虎党に愛された右腕。オールドファンならば、NPBで通算100勝を挙げたジーン・バッキー氏(昨年9月14日に82歳で死去)と並んで、優良助っ投として名前を挙げるはずだ。

 「偉大な野球人で、オークランド(アスレチックス)の誇りでした」

 古巣のアスレチックスが2日、公式ホームページ(HP)で報じた。死亡日時や死因など詳細は公表されていない。ア軍のビリー・ビーン副社長(58)はHP内で声明を発表し、悼んだ。

 父・マーティさんもプロ野球選手として活躍し、レッドソックスや南海(現ソフトバンク)でプレー。自身は73年にドラフト7巡目で内野手としてア軍に入団した。だが、打力に課題があり、76年に投手に転向。これが奏功して77年にメジャー初昇格を果たした。188センチの長身から投げ下ろす直球と、切れ味鋭いカーブを武器に80年に16勝を挙げ、カムバック賞にも輝いた。

 その後は複数の球団を渡り歩き、87年に阪神に入団。当時のタイガースは85年のリーグ優勝、日本一から徐々にチーム力が低下していた時代。オープン戦で他の先発陣がパッとしない一方、キーオ氏は16回無失点と好成績を残し、いきなり開幕投手に指名された。日本でプレーしたことがない外国人投手が1年目に開幕投手を務めるのは、史上初のことだった。

 この年の最下位を皮切りに猛虎は暗黒時代に突入し、在籍した4年間は6、6、5、6位。そんな中で3年連続2桁勝利と孤軍奮闘して、明るい話題を提供した。バースが途中帰国した88年には巨人戦に8度登板して5勝2敗、防御率2・24。伝統の一戦で気を吐き、虎党に留飲を下げさせた。父とともに日本に滞在したこともあって日本語がうまく、「ちょっとマットキーオ(待っときいよ)」とダジャレを言って笑わせることもあった。ちなみに打者として2本塁打を放ち、南海で17発の父とともに親子本塁打を達成している。

 NPB通算45勝は、2リーグ分立後の阪神の外国人投手ではバッキー氏の100勝、昨年限りで引退したメッセンジャー氏の98勝に続く。90年はオープン戦で左膝を負傷した影響を引きずって7勝にとどまり、この年限りで自由契約となった。

 引退後はメジャー復帰を目指したが、かなわずに引退。ア軍でゼネラルマネジャー補佐を務めるなどフロントやスカウトとして活躍した。「彼はすべての人に忘れられない印象を残した。心からお悔やみを申し上げます」とビーン副社長。日本でも米国でもファンから愛された投手だった。

マット・キーオ(Matthew Lon “Matt” Keough) 1955年7月3日、米カリフォルニア州出身。カリフォルニア州立大を中退し、73年D7巡目で内野手としてアスレチックスに入団。76年に投手に転向。77年にメジャー初昇格。78年は球宴にも出場した。ヤンキース、カージナルス、カブス、アストロズを経て87年に阪神へ。先発として活躍したが、90年限りで自由契約。メジャー復帰を目指すもかなわず、91年に引退した。MLB通算215試合で58勝84敗、防御率4・17。NPB通算107試合で45勝44敗、防御率3・73。引退後はアスレチックスでGM補佐を務めるなどした。現役時代は188センチ、85キロ。右投げ右打ち。阪神時代の背番号は「4」

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