55年日本シリーズ第5戦3番抜擢 巨人・藤尾はいつも学生服姿だった(東スポWeb)

【ネット裏 越智正典】苦戦の末、ソフトバンクが日本選手権第6戦で優勝を決めた瞬間から、王貞治会長にお祝いのメールが殺到した。王がお礼の電話をかけるのに3日もかかったと聞くが、いかにも律儀な王らしかった。

 振り返ると、新鋭、中堅、老功、チーム編成と起用の大切さを思い知らされたのは、昔のことになるが1955年の巨人―南海の日本選手権である。

 51年から日本選手権3連覇の巨人第2期黄金時代は54年、中日の鉄腕・杉下茂の快投の前に終わった。杉下は遠征に出ると、帝京商時代からの恩師、監督天知俊一に「先生お願いします…」とキャッチャーを頼み、宿のそばの路地で練習をした。天知は試合前には杉下とお茶。天知はのちに「投手起用は防御率では決めません。信頼で決めます」。

 55年の日本選手権は大阪球場で始まった。1勝1敗でシリーズの舞台は後楽園球場に移ったが、巨人は3戦4戦と連敗。あっという間に追い詰められた。

 第5戦、ウグイス嬢が「1番南村(不可止)、2番平井(三郎)、3番藤尾(茂)…」と先発を告げた。藤尾は53年、鳴尾高から入団の捕手だが、ずうーっと学生服で過ごした。花のお江戸へ行くというので背広を新調したのだが、食べ盛り。そのころ多摩川寮のごはんはどんぶり盛り切り一杯。本紙評論家だった千葉茂が57年、二軍監督になるまでおかわりはなかった。

 夜おなかがすく。当時ファミレスなどはない。遅くまでやっているのはすし店。カネがない。背広を質に入れる。給料日に出してきて勘定を払うとまた背広は質へ。

3番藤尾は監督水原茂の勝負だった。いつもベンチのスミにいる多摩川組ははじめ耳を疑ったが、ホントだとわかると、先輩に気づかれないようにそっと握手を交えた。52年入団の逗子開成の捕手・棟居進、入団2年目の松商学園投手・堀内庄、倉敷工の投手・安原達佳、新人松本深志の内野手・土屋正孝。入団2年目の水戸商の外野手・加倉井実が7番で起用されている…。
「たのむ、打ってくれ。そうすればオレたちの時代がくる」。彼らは祈った。

 第5戦、初回走者一、二塁で藤尾は南海の宅和元司(門司東、54年新人王)と対戦した。第1球ボール、第2球ボール、第3球、藤尾はカーブを叩いた。打球は高々と上がり左翼上段に。シリーズは大阪に戻り、第6戦を老功・中尾碩志で勝ち、第7戦は4対0。エース別所毅彦が締めくくった。

 ナインは翌日、帰京。読売新聞社と日本テレビでの祝賀会が終わると、神田のサロン「ハル」へ。大打者川上哲治がチークダンスを踊った。“神様”が…とびっくりしていると、川上が「さあー、みんな踊れ」。

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